白磁の人   (江宮隆之著) [ノンフィクション]

この時代には稀有な本物の国際人・淺川巧を描いたノンフィクション。


民族運動の父と呼ばれる柳宗悦に多大なる影響を与え、哲学者の阿部能成は彼の死を「人類の損失」とまで記した。

日本が朝鮮(今の韓国)を併合して4年後の1914年、淺川巧は林業技師として山々を緑に戻す指名で朝鮮に渡る。
と、言っても荒れ果てた山々は日本・ソ連による伐採によるものだ。

軍はもちろんのこと日本人のほとんどが朝鮮人を蔑視し、言葉を含め日本の風習や価値基準を押し付ける時代。

結果、ご存知のように今も彼の地では日本語を話す老人は多い。

そのような時代に、彼は朝鮮語を学び、白磁に代表される朝鮮の文化や工芸品の素晴らしさを見出していった。

日本人・朝鮮人のわけ隔てなく、誰にでも穏やかに平等に接して、そのことで日本軍の兵隊などに虐められる様なことがあっても生涯そのスタイルを貫いたのだ。

一部の「朝鮮寄り」が気に入らない日本人を除き、彼に接するすべての日本人・朝鮮人から愛され、
彼の家はいつも物売りの老婆から娼婦、人夫、または学者に至るまで国籍・性別・階級を超えた人が集まっていたそうだ。

そして、まるで「生き急ぐ」かのように、本業の林業技師として山々を巡り緑を取り戻す作業と共に、白磁の研究・収集・論文、またその他の工芸品の発掘など、
ほとんど寝る間もない生活を続けた結果、わずか40歳の若さでこの世を去ることとなる。

彼の葬儀には当時の朝鮮における日本人の葬式ではありえないそうだが、大勢の朝鮮人が少しでも棺を担ぎたいと詰めかけ長蛇の列が出来た。

途中出くわした日本軍が威嚇などで解散させようとした際も、当時はどのような理不尽な要求も飲まざるを得なかった朝鮮人が全く言うことを聞かなかったという。

今でこそ、平等を叫んだり、またその通りに行動することはたやすい(その気があれば)が、この時代に
淺川巧のようにその意志を貫くのは容易ではないだろう。

ちなみに、今でも、朝鮮人やアジアの人々に対して平等に接している日本人は決して多くはないのではないかと思う。

そして彼らに対して偉そうな態度を取る人たちはえてして欧米人に対する態度は弱い。

少し話はずれるが、日本帰国時によく感じるのだが、日本人は(主に男性)すれ違う際によけず、わざと肩をぶつけるような人が非常に多い。

ところが欧米人と一緒に歩いていて観察すると、彼らに肩をぶつける人は皆無である。

正直、この国はなんなのだろう、どうなっちゃたんだろう?と思ってしまう。


以前にも記載したかもしれないが、中国の友人はやはり中国で接する日本人が大嫌いだったのだそうだ。

理由は「とにかく横柄で偉そう」だから。

到底、淺川巧には足元にも及ばないが、そんな彼と無二の親友になれ、「日本人に対する印象が変わった」と言ってくれたことは今でも自分の中で誇りである。

そして今回、韓国人の人と一緒に飲む機会があった。
その彼が言ってくれたのだが、「やさしくしてくれる人は多いけど、あなたの様に対等に接してくれる人は少ない。ぜひ次回帰国時も会いたい」と。
お世辞かもしれないが、とても嬉しかった。

今後、そのように思ってくれる人を一人でも多く作りたいと思っている。

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